「まほう色の瞳」

「宇宙人アミ」の作者

エンリケバリオス

日本の読者のために書き下ろした物語。

王である父と娘の別れのシーンの会話。

 

「私たちはただの人間なのだ。

 こころが優しい

「優しい、愛するものに対しては。

 しかし、 

 愛していない相手にはとても冷たいのです」

 

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好きな人に好きだと伝えたり、

優しくするのは得意だ。

好きがダダ漏れしているらしいし、

「好き、好き」言い過ぎて

「うーるーさーい。もうわかったから笑」 

ってなるらしい。

 

でも苦手な人(滅多にいないけど)への

嫌悪も明らかに顔や態度に出ているらしく、

特に何も言わなくても

伝わっちゃってるらしい。

 

合わない人と無理に仲良くするとかも

違うと思うんだけど、

嫌悪って感情は出来るだけ持ちたくない。

イキイキと

「なんだよ〜アイツ!嫌いだ〜」

って怒るのもたまにはいいけど、

それも疲れちゃうよね。

 

だから適度な距離を取るようにはしている。

お互いのためでもあるしね。

 

なんだけどさ、

嫌いな人にも

愛で接することが出来る世界(わたし)

だったらいいなと最近よく思う。

自分の中のネガティブ(嫌いな部分)と

の付き合い方もたぶんそうだ。

 

 

小学校とかで

「クラスのみんなと仲良くしましょう」

ってのは違うなって子どもの頃から

感じてて、

「平和なクラスと自分を保つために、

 一緒にいると疲れちゃう人とは

 距離をとりましょう」

が正解だと思ってた。

 

でもそれで

「そっけなくなった」

「無視した」

とその子の親に訴えられて、

「いじめはよくない」

って先生に呼ばれた。

 

「先生は親が出てきたり、

 泣いた子の味方なんですね」

と先生のことも突っぱねた。

 

だけどその後、

その子と

「こういうところが嫌だったよ」 

「本当はこんな気持ちだったよ」

腹を割って話した。

はじまりは

「もうがまんならん。はっきり言ってやる」

だったと思う。

(どこまでも火のエネルギーというか

ナイフな子どもの私

でも私にこんなに思いがあるように

その子にもいろんな思いがあったんだよね。

 

大人に言われるよりも

ずっとずっとスッキリとした気持ちになれた。

でもその子とべったり仲良くすることは

その後もなかった。

 

 

 

同じコミュニティ内に苦手な人がいた場合、

自分が壊れるくらいなら

距離をとってそこを離れればいい。

だけどそこに平和的にいたいって思ったら、

お互いの「本当を知る」

って努力は必要なんだろうな。

対話をするってこと。

 

対話って言葉は

なんか堅苦しくて好きじゃないけど

実は頭で考えるとややこしいことでも

ただ美味しいものを一緒に食べて

楽しくわいわいやってたら

苦手が溶けちゃってたりもする。

対話って言葉だけじゃない。

嫌いだって意識するから

イラッとに注目するから

強くなっちゃうんだね。

 

子どもたちは毎日それをやっている。

特に息子の学童は

本当の気持ちを伝えて聴くってことを

とても大事にしてくれている。

 

好きな友達への愛が強すぎて、

まわりにひかれている息子。

母と似過ぎていて苦笑。

でもそんな自己中気味な息子とも

ちゃんと対話をしようとしてくれる

友達がいる。

 

ずっとそばで寄り添ってくれてる人。

好きだなって思うこともパワーになるけど、

好きだなって思ってくれる存在

仲良くしたいなって思ってくれてる人。

それはとてもありがたいこと。

 

愛に溢れたコミュニティがあるって知ると

ナイフな私も素直になって

安心して愛にくつろげる。